米倉斉加年 青木繁を語る
福岡ユネスコ文化講演会を開催しました
2011年3月12日、エルガーラ中ホール(福岡市中央区天神)において上記の講演会を開催しました。
平成23年3月25日は青木繁の没後100年にあたります。
久留米が生んだ画家・青木繁は28歳8か月という短い生涯ではありましたが、国の重要文化財となっている「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」など、日本近代美術史上に残る作品を残しました。
当協会は50年前に、「青木繁没後50年展」を福岡大丸、小倉玉屋、東京の銀座三越で開催しました。
この展覧会はたいへん高評で、大きな反響を呼びました。
戦後まもなく、福岡にまだ今のような美術館がなかった時代に、3年にわたり当協会が開催した「福岡県内所蔵近代美術展」。
これは県内の企業や個人所蔵の近代美術を調査、リストアップして行われたもので、こうした活動のなかから青木繁の未発表作品も発見されました。これが元になって、50年前の「青木繁没後50年作品展」につながりました。
このような経緯から、青木繁没後100年に因み、石橋財団石橋美術館とともにこの講演会を企画開催しました。
講 師 米倉斉加年氏 (俳優、演出家、画家)
米倉さんは、以前、NHKが制作した「炎の海 青木繁-その愛と死-」で自ら青木繁の生涯を演じ、ドキュメンタリーのリポートを務めました。青木繁が残した焼絵の制作にまつわるお話など、その撮影でのエピソードを交えて、非凡な才能を持ちながら若くして亡くなった画家 青木とその作品についてご講演いただきました。
主 催 福岡ユネスコ協会、石橋財団石橋美術館
共 催 NHK福岡放送局
上記の講演会場にて、ご来場の方々に「東北地方太平洋沖地震」に対する義援金を募集し、たくさんの方々から募金をいただきました。ご協力ありがとうございました。
この義援金はNHK、日赤を通じ、被災された方々にお届けいたしました。
3月12日土曜日。「米倉斉加年 青木繁を語る」― 青木繁 没後100年に因む講演会を開く。
石橋財団石橋美術館と当福岡ユネスコ協会が共同で開催。さらに、NHK福岡放送局との共催となった。
青木繁没後50年の年、1961年(昭和36年)「没後50年青木繁展 ― その知られざる画業 ―」を福岡大丸、小倉玉屋、東京三越で開催、この展覧会は戦後の青木繁ブームを全国的にもたらしたという高い評価を得た。
この展覧会を行うきっかけになったのが、福岡県内所蔵近代美術展であった。
竹藤寛前事務局長の若いころ、創立から10年、昭和33年、福岡ユネスコ協会は文化活動を積極的に進めることになった。その一つが福岡県内に所蔵されている近代美術のリストアップを行い、その作品を県民の皆様にご覧いただこうという企画であった。
このころ、福岡に美術館など文化センターを建設しようという県民運動も高まっていた。
この運動を側面から推進する役目を担ったのが、この県内所蔵近代美術展で、3ヵ年にわたって開催し、ご高評をいただいた。
この美術展のもう一つの成果は、これがきっかけとなって青木繁の未公開作品が多数発見され、「没後50年展」へと展開したことだった。
さらに竹藤寛がご遺族からお預かりした書簡などをもとに『青木繁・坂本繁二郎とその友』を上梓いたし、高い評価をいただいた。
あれから50年、今年3月25日は青木繁没後100年となる。石橋美術館の森山学芸課長とお話をするうち、石橋美術館もまた青木繁没後100年の作品展を企画、そのプレイベントとして講演会を企画中であることを知り、共同主催へとなった。
米倉斉加年氏(福岡出身、俳優・演出家・画家)に講演をお願いしたところ、ご快諾をいただいた。
一つ条件をいただいた。「昭和53年(1978年)、NHK特集で『炎の海~青木繁の愛と死~』の中で自分は青木繁に扮し、また、青木が生きた時代がどのような時代だったかをリポートした。青木繁は油絵具を買うお金にも困り、海岸に杉の板戸を持ち出し、焚き火で焼いた舟釘で絵を描いた…。あのシーンをみなさんに見ていただきたい。
ところが、どういうわけか、一度も会場でビデオをみなさんに見ていただくことができない!何とか方法はありませんか?」
3月12日、エルガーラ中ホール会場で、NHK特集の若き日の米倉斉加年氏の姿を一部であるがご覧いただく。
皆さまのご参加をお待ちします。
(*枠内は旧サイト「福岡ユネスコ丸航海誌」に掲載していた文章です.)